2025年6月12日(木)第38回目の短編小説読書会を行いました。初参加2名を含む6名での開催となりました。
今回のテーマは原田マハ『オフィーリア』でした。
原田マハ『オフィーリア』のあらすじ
ロンドンの画廊に飾られていた一枚の絵「オフィーリア」は、遊学中の日本人画家に買われ、日本へ渡る。画家を支援した大殿はその絵を見に訪れた際、画家の娘に心を奪われ、彼女を妻に迎える。しかし妻は大殿の従者と密通し、発覚した青年は殺される。
やがて大殿は画家に「オフィーリア」を描かせようとするが、画家は「実際に見たものでなければ描けない」と断る。そこで大殿は、自らの妻(=画家の娘)を水に沈め、その姿を画家に見せて絵を描かせる。完成後、画家は自害し、娘は絵の中で死の直前の一瞬を永遠に生き続けることとなる。
初読の感想
まずは「審査員になったつもり」でこの作品を評価し、感想をシェアするところから始めました。
Yさん:★★☆☆☆
→なんじゃこれ、という感じ。刺さるものがなかった。
Oさん:★★★★☆
→終わり方がループものっぽい。不気味なところが好みだった。
Sさん:★★★☆☆
→オフィーリアの絵の話題というよりは絵ができるまでのストーリだったのが印象的。
Aさん:★★★☆☆(★3.5)
→怖い話のつもりで書かれているのだろうが、そこまで怖く感じなかった。
Mさん:★★★☆☆(★3.5)
→「わたくし」の日本語がお上品。怖い話と思いきやそこまででもなかった。
Yuya:★★★☆☆
→シェイクスピアのオフィーリア、絵の題材としてのオフィーリアと多層なイメージが重なっているところが面白い。
今作の選定理由
参加者のひとりから、「Yuyaさんの読書会って、いつも賛否ある作品を選ばれていますね」と言われました。まさにその通りで、私はむしろ、賛否が分かれる作品だからこそ、みんなで集まって議論する価値があると思っています。意見がそろってしまうと、どこか物足りなさを感じるんですよね。
今回題材として選んだ原田マハさんは、アート作品を小説にうまく取り込む作家として知られています。たとえば『砂に埋もれたル・コルビュジエ』は、高等学校の国語(「現代の国語」「言語文化」)の教科書にも掲載されています。たしか『ブリオッシュのある静物』だったと思うのですが、入試問題か模試でも見かけた記憶があります。
そんな原田マハさんですが、この短編『オフィーリア』はレビューを見ると賛否がはっきり分かれていて、彼女の作品の中でも少し尖った印象がありました。だからこそ、こうした作品はひとりで読むより、みんなで語り合いながら読むことで、まったく違う景色が見えてくるのではないか。そんな仮説のもとに、今回この作品を選ばせていただきました。
考察①:オフィーリアの多層構造
この作品の難しさであり、同時に面白さでもあるのは、『オフィーリア』の周辺情報が多層的に絡み合っている点にあります。ここでは、『オフィーリア』をより深く楽しむために必要な前提知識を整理してみましょう。
プロットの下敷き:芥川龍之介の『地獄変』
小説『オフィーリア』のプロットについてですが、芥川龍之介の『地獄変』を下敷きにしていると作者が公言しています。
『地獄変』については、次回の読書会で詳しく取り上げる予定ですが、物語の骨格を一言で表すならば、「本当に美しい地獄を描くためには、現実の地獄を見なければならない」と信じる絵師の姿を描いた作品です。
プロットを見比べると、似ている部分がよくあります。
- 権力者(大殿)との関係
- 自分の娘をも犠牲にする「究極の芸術」の完成
- 娘が死ぬ場面を目撃し、それをもとに描かれる傑作
- 完成後に自死する絵師
確かに物語の骨組みそのものは、『地獄変』からの引用と見て間違いありません。
しかし、『オフィーリア』はそれを単に現代に置き換えた作品ではなく、作者独自の視点や工夫が随所に見られます(詳しくは次章で)。
シェイクスピアの『ハムレット』に登場する「オフィーリア」
実は「オフィーリア」とはもともと、シェイクスピアの戯曲『ハムレット』に登場する人物です。以下に、その物語の概要を簡単にご紹介します。
オフィーリアは、主人公であるデンマークの王子ハムレットの恋人であり、国王の顧問官ポローニアスの娘でもあります。
ハムレットは、父である国王を突然亡くします。王位は父の弟・クローディアスが継ぎ、さらにクローディアスは、ハムレットの母・ガートルードと結婚します。
王位も母も叔父に奪われたような形となったハムレットの前に、ある夜、亡き父の亡霊が現れ、自分は弟クローディアスに毒殺されたのだと語ります。
真相を確かめるため、ハムレットは狂気を装うようになります。事情を知らないオフィーリアは、突然冷たくなったハムレットの態度に深く傷つき、涙にくれます。
やがて宮廷で劇が上演されます。劇の内容はハムレットの計画によるもので、亡霊の証言通り、父が殺された場面が再現されていました。
劇を観たクローディアスは明らかに動揺し、最後まで観劇することができずに席を立ち去ります。この反応を見て、ハムレットは亡霊の言葉が真実だったと確信します。
その後、ハムレットは母ガートルードを問い詰め、父の死と叔父との再婚を激しく非難します。その場には、壁掛けの裏に隠れていたポローニアスがいました。
盗み聞きをされたと感じたハムレットは、相手を確かめないまま剣を突き刺し、結果としてポローニアスを殺してしまいます。
父の死を知ったオフィーリアは、深い悲しみに打ちひしがれ、やがて正気を失ってしまいます。花を両手いっぱいに抱えて、宮廷や野原をさまよい歩きます。
そして間もなく、彼女は川で溺れ死んでしまいます。事故だったのか、自ら命を絶ったのか、その死の真相は明らかではありません。
『ハムレット』に登場するオフィーリアは、多くの人々の心を打ち、やがて「悲劇のヒロイン」の象徴として、さまざまな芸術作品の中で繰り返し描かれることになるのです。
絵の題材としての「オフィーリア」
『ハムレット』に登場するオフィーリアは、多くの人々の心を打ち、やがて「悲劇のヒロイン」の象徴として、さまざまな芸術作品の中で繰り返し描かれるようになります。
なかでも最も有名なのが、ジョン・エヴァレット・ミレーによる絵画《オフィーリア》でしょう。
私自身、「オフィーリア」という名前を聞いて真っ先に思い浮かべたのも、この絵でした。

(引用元:Wikipedia)
これまでに登場した「オフィーリア」の流れを時系列で整理すると、次のようになります。
① シェイクスピアの戯曲『ハムレット』に登場する「オフィーリア」
② 美術作品の題材として繰り返し描かれる「オフィーリア」
③ 原田マハの小説『オフィーリア』
原田マハの『オフィーリア』は、このような流れを受け継ぎながら、さらに芥川龍之介の『地獄変』のプロットを組み合わせて構成された作品だと言えるでしょう。
考察②:原田マハの表現する「オフィーリア」
ここからは、原田マハの小説『オフィーリア』について考えてみましょう。
物語は、絵画《オフィーリア》に描かれた語り手(「わたくし」)が、読者に語りかけるという形で始まります。そこで描かれている《オフィーリア》の様子を引用します。
憐れな女、わたくしはまさにいま、水中に沈みゆくところです。行き場をなくした両手を宙空に彷徨わせ、虚ろな眼差しは押し潰さんばかりに迫り来る青空に放たれています。青ざめた唇はかすかに震えながら最後の歌を口ずさみ、凍れる水の掌がわたくしの体を撫で回し、白い薄衣を纏わりつかせます。わたくしの体は、両の乳房も下腹も腿のかたちも水面にくっきりと浮かび上がり、やがて池底の泥の褥に横たわるところです。
原田マハ『オフィーリア』
この一節を、ミレーの描いた絵画《オフィーリア》とじっくり見比べてみてください。
引用にあるような「青空」は絵には描かれていません。唇も青ざめてはいません。水も凍っていないし、着ている衣服も「白い薄衣」ではありません。
つまり、この語り手の「オフィーリア」は、ミレーの《オフィーリア》ではない――そう言ってよいのではないでしょうか。
先ほども述べたように、『ハムレット』に登場するオフィーリアは、多くの人々の心を打ち、やがて「悲劇のヒロイン」の象徴として、さまざまな芸術作品の中で繰り返し描かれるようになります。
つまり、それぞれの時代、それぞれの視点から、多くの人が自分なりの解釈で《オフィーリア》を描いてきた、ということです。
そして、原田マハの小説に登場する語り手の「オフィーリア」は、誰が描いたものか明言されていません。
だとすれば、この語り手の「オフィーリア」は、一体誰の《オフィーリア》なのでしょうか?
原田マハ『オフィーリア』のモデルとなった《オフィーリア》はどれ?
オフィーリアを題材にした絵を描いた人をまとめたサイトを見つけましたので、引用させていただきます。
このサイトを見てもらうと、実にさまざまな人がオフィーリアを描いていることがわかると思います。
原田マハ『オフィーリア』のモデルとなった《オフィーリア》ですが、もしかしたらこの中にあるかもしれないし、ないかもしれません。
私の解釈ですが、そもそも特定のモデルが存在しなくてもいいのではないかと思っています。というのも、「オフィーリア」という存在は、絵画の中で苦しみながら生き続ける一瞬を象徴するものであり、特定の誰かに縛られる必要がないからです。画家の娘という一個人が、「悲劇のヒロイン」というアイコンとしてのオフィーリアへと転生する――その瞬間が描かれているのだと思います。
読書会でのある参加者のコメントに、「作中では娘の個性に深く触れられていない」というものがありました。ですが、それはおそらく、この娘が一個人としてではなく、「悲劇のヒロイン」という集合的な存在として描かれていたからではないでしょうか。
死の直前の一瞬をさまざまに切り取った《オフィーリア》が次々に生まれ、増殖し続ける。そうした無数のオフィーリアたちは、まるでゾンビのように、どこまでも湧き出てくるような不気味さを帯びているのかもしれません。
まとめ
今回は原田マハ『オフィーリア』を、参加者の皆さんと議論しながら読み進めていきました。オフィーリアという存在に、さまざまな人が多層的に関わっていることが見えてきて、とても興味深い時間になりました。
次回の読書会も、新しい物語と出会い、語り合えるひとときになることを楽しみにしています。初めての方も、どうぞお気軽にご参加ください!
次回は、芥川龍之介の『地獄変』を取り上げます。今回読んだ『オフィーリア』にも影響を与えた、芥川の代表的な作品のひとつです。青空文庫で無料公開されていますので、ぜひ事前に読んでみてください。
次回のご参加も心よりお待ちしております。
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