📚 第50回読書会|有島武郎『一房の葡萄』― 奪った絵の具と、与えられた葡萄 ―

📚短編の余白会

2026年10月、第50回目の短編小説読書会を行いました。
参加いただいた方、ご検討いただいた方、本当にありがとうございました。

今回の課題文は有島武郎『一房の葡萄』でした。

有島武郎『一房の葡萄』のあらすじ

『一房の葡萄』は、横浜の学校に通う少年「僕」の、幼い日の罪と赦しの記憶を描いた物語です。

絵を描くことが好きだった「僕」は、友人のジムが持っている舶来の美しい絵の具に強く惹かれていました。自分の持っている絵の具では思うような色を出せず、次第にジムの絵の具が羨ましくてたまらなくなった「僕」は、ついにそれを盗んでしまいます。

しかし、その行為はやがて友人たちに見つかり、「僕」は大好きな先生のもとへ連れて行かれます。厳しく叱られることを恐れる「僕」に対して、先生は頭ごなしに責めるのではなく、優しく向き合います。そして窓辺に実っていた葡萄から一房を取り、「僕」に差し出すのでした。

その出来事は、「僕」の心に深く刻まれます。

時が流れ、大人になった「僕」は、すでに亡くなってしまった先生を思い返します。かつて自分に一房の葡萄を差し出してくれた先生の手は、もうこの世にはありません。

初読の感想のシェア

初読の感想シェアでは、「自分が審査員になったつもり」で作品を評価してみるところからスタートしました。参加者それぞれの視点から率直な感想が出てきて、作品への入り口として面白い時間になりました。

Oさん<br>(公務員)<br>★★☆☆☆
Oさん
(公務員)
★★☆☆☆

読んでいて途中は嫌な予感があったけど、ハッピーエンドなのはまあよかったのかもしれない。けれど気になったのは、悪いことをして謝らなくてもいいのか?という疑問を持った。

Kさん<br>(漫画家)<br>★★☆☆☆
Kさん
(漫画家)
★★☆☆☆

主人公の心理が丁寧に描かれているのはよかったが、盗みをする感情は共感できず。最後の終わり方はよくわからなかった。

Yuya<br>★★★☆☆
Yuya
★★★☆☆

今の視点から始まって過去に回想シーンがあり、最後は現在に戻ってくるという構成があることで、主人公と距離を取らせる意味があるのかと思いました。

今作の選定理由

今回、『一房の葡萄』を選んだ理由

今回の課題文には、有島武郎の『一房の葡萄』を選びました。

8月の梶井基次郎『檸檬』、9月の芥川龍之介『蜜柑』に続き、今回もタイトルには果物が登場します。

秋を迎える10月に、季節を感じられる作品を読みたいと思ったことも選定理由の一つですが、それ以上に惹かれたのが、「なぜ、この物語は葡萄でなければならなかったのだろう?」という問いでした。

物語の主人公である「僕」は、友人が持っている美しい絵の具への憧れから、それを盗んでしまいます。そして、その罪が明らかになったあと、先生から差し出されるのが「一房の葡萄」です。

なぜ、僕が盗んだものは「絵の具」だったのか。

なぜ、先生が差し出したものは「葡萄」だったのか。

もし盗んだものがお菓子やおもちゃだったら。もし先生が渡したものが林檎や蜜柑だったら。同じ物語になっていたのでしょうか。

美しい色を求めた末に、自らの手で手に入れようとした「絵の具」と、罪を犯したあとに、他者の手から与えられた「葡萄」。

二つの「美しいもの」を並べてみると、そこには単なる「盗みはいけない」という教訓だけではない、人間の欲望や嫉妬、罪、そして赦しについて考える余白が見えてきます。

さらに有島武郎自身、若い頃にキリスト教の影響を強く受けた作家です。キリスト教において葡萄や葡萄の木が重要なモチーフであることを考えると、タイトルの「葡萄」にどのような意味を読み取れるのかも気になるところです。

美しいものへの憧れは、なぜ「盗み」へと変わってしまったのか。

そして、罪を犯した少年に差し出された「一房の葡萄」とは、いったい何だったのか。

秋の味覚として身近な葡萄から、そんな物語の余白を皆さんと一緒に考えてみたいと思い、今回の一冊に選びました。

芥川龍之介の略歴と作風

有島武郎(1878~1923)は、明治から大正期にかけて活躍した白樺派の作家です。

裕福な家庭に生まれ、札幌農学校で学んだのち、キリスト教に入信。その後アメリカへ留学し、西洋思想や社会主義などにも触れました。

そんな有島の文学には、彼自身が生涯向き合い続けた「人間はいかに生きるべきか」という問いが色濃く表れています。

人間の内面にある矛盾

有島作品の特徴の一つが、人間を単純な「善人」「悪人」に分けないことです。

人を愛したいと思いながら、自分自身の欲望も捨てられない。

正しく生きたいと思いながら、間違いを犯してしまう。

美しいものに憧れながら、その思いが嫉妬や欲望へ変わってしまう。

有島は、こうした人間の内側に共存する「理想と欲望」「善と罪」「愛と自己」といった矛盾を描きました。

『一房の葡萄』でも、主人公の「僕」は美しい絵を描きたいという純粋な思いを持ちながら、その憧れゆえに友人の絵の具を盗んでしまいます。

「美しいものを求める心」が、必ずしも「美しい行為」につながるわけではない。

そんな人間の複雑さが、子どもの小さな事件を通して描かれています。

キリスト教と「罪」「愛」「赦し」芥川龍之介の作風

有島を語るうえで欠かせないのが、キリスト教との関係です。

札幌農学校時代にキリスト教へ入信した有島は、やがて信仰そのものからは離れていきます。しかし、「罪とは何か」「人を愛するとはどういうことか」「人間は救われることができるのか」といった問題は、その後の作品にも大きな影を落としました。

『一房の葡萄』にも、

「僕が罪を犯す」
  ↓
「先生の前に連れて行かれる」
  ↓
「厳しく罰するのではなく、受け入れられる」
  ↓
「一房の葡萄を与えられる」

という流れがあります。

葡萄や葡萄の木は聖書にも登場する重要なモチーフです。そのため、先生による赦しや葡萄にキリスト教的な背景を読み取ることもできます。

ただし、有島がキリスト教的象徴として葡萄を選んだと断定できるわけではありません。だからこそ、「なぜ葡萄だったのか?」は読者に残された面白い問いでもあります。

「持つ者」と「持たざる者」

有島は裕福な家庭に生まれ、自身も北海道に広大な農場を所有する地主でした。

しかし社会思想に触れるなかで、「なぜ自分は土地を持ち、そこで働く人々から利益を得ているのか」という自らの立場に疑問を抱くようになります。

そして1922年には、自ら所有していた有島農場を小作人たちに解放しました。

こうした「持つ者」と「持たざる者」への問題意識を知ると、『一房の葡萄』の見え方も少し変わってきます。

主人公の「僕」は、美しい絵の具を持っていない。一方、友人のジムは、自分がどれほど欲しくても手に入れられないような絵の具を持っている。

その違いから、羨望や嫉妬が生まれていきます。

単なる「人の物を盗んではいけない」という教訓だけではなく、「自分にはないものを他人が持っているとき、人間の心はどう動くのか」という問題も、この作品には潜んでいるように思えます。

『一房の葡萄』を考察する――絵の具と葡萄、そして失われた「手」

『一房の葡萄』は、一見するととてもシンプルな物語です。

美しい絵の具が欲しくなった少年が、友人のものを盗んでしまう。そのことが発覚し、先生のもとへ連れて行かれる。しかし先生は少年を厳しく罰するのではなく、優しく受け止め、一房の葡萄を差し出します。

「人のものを盗んではいけない」「人を赦すことは大切である」。

そうした教訓を読み取ることもできます。

しかし今回の読書会では、物語の中に残された三つの「なぜ?」から、もう少し深く作品を読んでみました。

なぜ「絵の具」だったのか?

まず気になったのが、なぜ「僕」が盗んだものが絵の具だったのか、ということです。

単に盗みという罪を描きたいのであれば、鉛筆でも、お菓子でも、おもちゃでも物語は成立します。

しかし、「僕」が欲しがったのは美しい絵を描くための絵の具でした。

「僕」はもともと絵を描くことが好きな少年です。もっと美しい色で、自分の見ている世界を描きたい。そんな純粋な憧れから、友人ジムの持つ美しい絵の具に惹かれていきます。

ところが、その「美しいものを求める心」は、次第に羨望や嫉妬へと変わり、最後には「盗む」という行為につながってしまいます。

美しいものを描きたい。
だから、美しい色が欲しい。
でも、自分にはない。
友人は持っている。
だから、欲しい。
そして、奪ってしまう。

ここには、人間の心の面白い矛盾があります。

美しいものに憧れる心が、必ずしも美しい行為を生み出すわけではない。

むしろ、純粋な憧れだからこそ、それを手に入れられない苦しさが嫉妬や欲望へ変わることもあります。

そう考えると、「僕」が絵を描く少年であることにも意味が見えてきます。

『一房の葡萄』は、最初から悪意を持った少年が罪を犯す物語ではありません。

美しいものを愛する少年の中にも、醜い欲望は生まれる。

人間の「美しさ」と「醜さ」は、本当に別々のものなのか。

絵の具というモチーフからは、そんな問いが浮かび上がってきます。

僕が本当に欲しかったものは何だったのか?

さらに考えてみたいのが、「僕」が本当に欲しかったものです。

表面的には、答えはもちろん「絵の具」です。

しかし、本当にそれだけだったのでしょうか。

ジムは、自分にはない美しい絵の具を持っています。

だとすれば、「僕」が羨ましかったのは絵の具そのものだけではなく、「自分にはないものを持っているジム」だったとも考えられます。

もっと美しい絵を描きたい。
もっと自由に色を使いたい。
自分もジムのように恵まれていたら――。

そう考えると、絵の具は「持つ者」と「持たざる者」の違いを目に見える形にしたものとも読めます。

有島武郎自身、裕福な家庭に生まれながら、後年には地主として財産を所有する自分と、そこで働く小作人との格差に悩んだ人物でした。

その思想をそのまま作品に当てはめることはできませんが、「持っている人を目の前にした、持っていない人の心」という問題は、有島の生涯ともどこか響き合っています。

なぜ「葡萄」だったのか?

そして、この作品でもっとも気になるのがタイトルにもなっている「葡萄」です。

先生は、罪を犯した「僕」に一房の葡萄を差し出します。

なぜ葡萄なのでしょうか。

もし林檎だったら。
もし蜜柑だったら。
あるいは、お菓子だったら。

物語から受ける印象は、少し違っていたのではないでしょうか。

ここで注目したいのが、絵の具と葡萄に共通する「色」です。

物語の前半で、「僕」は美しい色を持つ絵の具を欲しがります。

そして物語の後半で、先生から差し出されるのも、鮮やかな色を持った葡萄です。

しかし、二つの手に入れ方は正反対です。

絵の具は、自分の欲望によって「奪った」もの。

それに対して、

葡萄は、他者の愛情によって「与えられた」もの。

どちらも「僕」にとって美しいものですが、一方は欲望によって手を伸ばした美であり、もう一方は他者の手から差し出された美です。

こう考えると、「絵の具」と「葡萄」は物語の中で対になっているようにも見えてきます。

葡萄とキリスト教

もう一つ無視できないのが、有島武郎とキリスト教との関係です。

有島は若い頃にキリスト教へ入信し、のちに信仰から離れます。しかし、「罪」「愛」「赦し」といった問題は、その後の思想や文学にも残り続けました。

そして聖書において、葡萄や葡萄の木は重要なモチーフとして登場します。

『ヨハネによる福音書』では、イエスが自らを「まことのぶどうの木」と語ります。また、最後の晩餐の葡萄酒は、キリストの血と結びつくものとして知られています。

もちろん、これだけをもって「有島はキリスト教の象徴として葡萄を選んだ」と断定することはできません。

しかし、

罪を犯した少年が、罰せられるのではなく赦され、そのあとに葡萄を与えられる。

この構図に、有島のキリスト教体験を重ねて読む余地は十分にありそうです。

だからこそ「なぜ葡萄だったのか?」には、一つの正解を決めるよりも、色彩、愛、赦し、そしてキリスト教など、いくつもの可能性を残しておきたいと思います。

なぜ「葡萄をもらって終わり」ではないのか?

そして最後に気になったのが、この物語の終わり方です。

もし『一房の葡萄』が単純な道徳物語であれば、

「僕」が反省する。
先生に赦される。
葡萄をもらう。

そこで終わってもよかったはずです。

ところが有島は、その先まで描きます。

時が流れ、先生は亡くなります。

そして大人になった「僕」は、かつて自分に葡萄を差し出してくれた先生を思い出します。

ここで印象的なのが、単に「葡萄がなくなった」のではなく、葡萄を自分に与えてくれた「手」が、もう存在しないということです。

もし葡萄を「赦し」や「救い」の象徴として読むなら、「葡萄を渡す手」が失われたことは、「僕」に救いを与えてくれる存在が失われたこととも解釈できます。

もう、あの葡萄を差し出してくれる手はない。

そう考えると、作品の最後には深い喪失感があります。

しかし、本当に「救い」はなくなってしまったのでしょうか。

先生はいない。
葡萄もない。
葡萄を差し出した手もない。

それでも、大人になった「僕」は、その出来事を覚えています。

つまり、救いを与えてくれた存在は失われても、一度与えられたものは記憶の中に残り続けているとも考えられます。

「救いの喪失」であると同時に、「救いの記憶」でもある。

だからこそ、少年時代の小さな出来事が、大人になった「僕」の中から消えないのかもしれません。

『一房の葡萄』とは何だったのか

物語の最初、「僕」は美しいものを自分の手で手に入れようとします。

その結果、絵の具を盗んでしまいました。

しかし、最後に「僕」の人生に残った美しいものは、自分が奪った絵の具ではありませんでした。

それは、誰かが自分に差し出してくれた「一房の葡萄」でした。

奪ったものではなく、与えられたものが残った。

そう考えると、この作品が『盗んだ絵の具』ではなく、『一房の葡萄』と題されていることにも意味が見えてきます。

美しいものを求める心。
そこから生まれる嫉妬と欲望。
罪を犯してしまう人間の弱さ。
それでも差し出される他者の手。

そして、その手が失われたあとにも残り続ける記憶。

『一房の葡萄』は、「盗みはいけない」というだけの物語ではなく、人は誰かから与えられたものによって、その人がいなくなったあとも生きていくことがある――そんなことを描いた物語なのかもしれません。

まとめ

今回は有島武郎の『一房の葡萄』を、参加者の皆さんと意見を交わしながら読み進めました。多角的に読み解ける作品で、感想をシェアする中で新たな視点に気づかされることも多く、とても刺激的な時間となりました。

次回の読書会も、新しい物語と出会い、語り合えるひとときになることを楽しみにしています。初めての方も、どうぞお気軽にご参加ください!

次回作品と日程は決まり次第、こちらのブログにてお知らせします。

次回のご参加も心よりお待ちしております。

コメント